2008年12月30日火曜日

そして30日がやってきて・・・

 本日は年賀状書き、といってもパソコンが書いているのだが、260枚ほどあるのでパソコンさまさまである。ところが、昼過ぎになって、それまでも調子の悪かったプリンターがとうとう単純作業にいやいやをして停止してしまった。機械音痴の私であるがガチャガチャやっていたら余計プリンターはすねてしまってウンともスンとも言わなくなった。こりゃ手書きで残り100枚書くしかないかと覚悟を決めていたら、奥方様が「しようがないわね・・・1万5千あればいいの?」なんて、ポンと購入資金を出してくれた。こういうときのかみさんは菩薩様に見えるね。いや、かみさんだから「神さん」か・・・。
 早速、近くの大型電気店に新車で買いに行った。そうなんだね、我が家は8年振りにこんなご時勢なのに8人乗りのトヨタの新車なんですね。もちろん名義はかみさんで、あっしはアッシーですな・・・。今日1日、修論をやっていないせいか、おつむが普段のおやじギャグ頭に戻ってしまったようだ。こんなんで大丈夫なんだろうか。こんなんで、困難だ!ああ、またギャグが出てしまう。
 新製品のキャノン製のプリンターは音が少々うるさいのが気に食わないが、印刷スピードがあり、快適である。カラーコピーやスキャンもできるところが気に入った。しかし、インクが高いんだねえ。
 今年もあと1日。色々不満があった年であったが、家族や親族そして友人や近しい仲間に大過なく過ごすことができたことが良かった。やはり、健康が一番。健康でありさえすれば仕事ができる。
 スポーツは健康だからできると思っている。スポーツをやるから健康になるとは限らない。トップアスリートは上を目指してやればやるほど怪我をする可能性が増大する。私のような50代半ば過ぎの人間にはソフトバレーやママさんバレーのBチーム要員が適度な運動でいいね。やはり、気の合った仲間とやることが楽しいんだね。
 なんか、一年の締めの言葉としては長屋の熊さんみたいなへらへら調になってしまったが、来年はもっと良い年にしようと強く思っている。謙虚、感謝、寛容の3K(頭文字がカ行で始まるから)がキーワードです。何、私らしくない、ですって?私も2月には57歳になります。そろそろ年相応の慎み深さが必要でしょうね、私だって。
 では、今年はこのくらいで、新年は皆様方にとって、ますます良い年でありますように。そして、そのための努力をコツコツと継続しましょう。

2008年12月29日月曜日

師走の29日ですが・・・

 ここのところ大学院に通って4日目です。いつも6名から7名が院生室に来ていて、皆無口でパソコンに向かって修論を書いている。論文なんて、学者でもなければ一般の人は、一生の中で1回か2回書くだけであろう。論文は評論文とも、レポートとも違う。論文特有の約束事がある。まったく嫌になってしまう。しかし、その文法ともいうべき約束事に慣れると評論よりもレポートよりも書きやすいとHow to本には書いてある。いずれにしろ、明日からも毎日修論作業の日々を送る。
 しかし、毎日集中して一つのことに向かっていると思わぬ発見がある。今までわからなかったものが、何かの拍子で理解できる。今日も、日本経済新聞の地方版で長崎県の五島列島の記事が出ていて、そこから光明が見えた。五島列島は岩本洋先生の出身地で、その郷愁が伊豆諸島や小笠原諸島でのソフトバレーの普及につながっている、という先般の小笠原行きの船中での聞き取り調査を思い出した。思い出しついでに先生に電話をさしあげた。話の中で、最近疑問を抱いた事項の答えがあっけなく出てきた。
 また、今日はこんなことがあった。院生の図書室でぶらぶらしていたら、偶然にも「柔らかいスポーツへの招待ー軽スポーツの科学ー」(奈良女子大学文学部スポーツ科学教室編)という本が目にとまった。なんと、その中にソフトバレーボールの生理的負担度に関して、硬いバレーとの比較の図が載っていた。つまり、大学のバレー部員に六人制とソフトバレーそれぞれゲームをやらせて心拍数を測った単純なものでしたが、ソフトバレーボールは硬いバレーよりも運動時の心拍数は低くなるという結果がデータとして出ていた。もっとも、このとき使用したボールはゴム製でなくビーチボールを使用しているので、正確にはソフトバレーボールという名称でなく、ビーチボールバレーという名称を使うべきでしょうね。いずれにしろ、これは参考資料になりますので頂きです。本来は、そのような生理的データを日本ソフト連盟の指導普及委員会で取っておくべきです。いや、私のこれからの仕事ですね、これは。

2008年12月28日日曜日

今年もあと僅かですが・・・

 茗荷谷の大学院に来て、情報処理室のパソコンからこのブログを打っています。昨日で当大学院も御用納め。昼前に表玄関から入ろうとしたら、守衛さんから呼び止められ「正面玄関は閉まっています。入り口は向こうですよ」と、隣接する放送大学の警備員入り口を指示された。
 今日で3日連続で院生室に通っている。同じように修論提出に追い詰められている同窓が数名通い詰めている。ブログでは書きたいことが、あとからあとから泉のように湧き出てくるのに、論文の字数のほうは来年の干支の牛歩のように進まない。
 とはいっても、毎日の成果は僅かでも出てきている。つまり、机の前で苦悶していると、書くべきことが少しずつ出てくる。「努力は人を裏切らない」ことを信じて、私のような鈍才は時間をかけて机に向かうしかない。明日もここに来て、明後日は自宅の大掃除と年賀状書き。家族とは元旦まで家内の実家で過ごし、2日からはまたここに戻ってくる。
 3学期の授業料も、先週支払った。修論を提出するだけのためなのに13万円も支払った。というわけで、ブログも今日はこの辺でやめよう。時は金なり、金は修論なり。

2008年12月23日火曜日

全国私学高等学校バレーボール選手権大会 閉幕

 先週の土曜日から開幕された標題の全国大会は、バレーボールとしては国内で最大規模の参加チーム数が開会式に集まった大会であろう。男女で160チームが東京都町田市総合体育館に集まり、翌日からは東京都、神奈川の地16会場で熱戦を繰り広げた。大会4日目の本日は男女ベスト8からのトーナメント戦。優勝したのは、男子が東亜学園、女子が下北沢成徳と東京都新人戦の結果と同じになった。
 大会会場で、今夏の埼玉インターハイ以来、久しぶりに多くの監督さんとお会いできた。ゲームも普段見れない地方の私学のチームも戦いぶりも拝見できた。トップのチームと下位のチームの差を私は、サーブとブロックのシステム力の差と見た。どこにサーブを打つのか、それによってブロックをする確率の高いスタートポジションはどこなのか、つまり計算されたサーブを打っているチームは強い。
 明日の午後からは、私が外部コーチをしている神奈川県の女子チームに1泊2日で行く。例年は5泊6日なんだけが、今年は修論があるからね。残念。我慢、我慢。対戦チームは隣県の2位以上の強豪チーム。私が、まず生徒にコーチするのは決まっている。「君、今のサーブはなぜあそこに打ったの?」そこで答えられない生徒には一喝する。「何も考えないで単にサーブを実施しているわけ?先ほど君が打ったのは相手のリベロに打ったんだよ。リベロはレシーブの名人だよ。もし、意図的にリベロにイージーサーブを打つのであれば、相手に速攻や時間差を実行させてブロックで仕留めるという戦術も考えられるが、そうだったのかな?」まず、生徒に質問する。そのことで相手の考えていることがわかる。私のコーチングは、生徒に気付かせること、生徒が自分の力で解決策を発見していくことを支援していくスタイルだ。日本の部活での指導は、先生方がいつまでも教えすぎと感じている。先生が一方的に指導して(話して)、生徒は聞くことを辛抱している。注意しているときの言葉も否定的な表現が多いので、また同じ失敗をしてしまう。「なんで、おまえはこんな風にしてプレーをやっているんだ!?」実は、このような否定的な表現で注意することで、人は深層心理にミスプレーを植え付けられ、してはいけないという気持ちが強いほどまた同じ失敗をしてしまうということ。「〇〇するんだ」という肯定的言い方のほうが、目指す良いプレーが出現する確率が高くなる。
 さて、コーチ論は尽きないので、もう就寝しよう。

2008年12月14日日曜日

小笠原村父島・母島バレー行脚 その4


■12月9日(火)

  朝食に、昨日の釣りの成果(先生の師匠のである)であるシマアジの刺身が出た。醤油皿にワサビの代わりに島唐辛子をほんの少し加えて熱々のご飯と頂くと、これが旨い。腹ごしらえもして、母島に行くために部屋からバッグ類を出そうとしていると、掃除のおばさんが先生に近寄ってきた。

「あのう・・・岩本先生ですよね・・・」
「はい、そうですが」
「ああ、やっぱりそうだ。先生全然お変わりないから・・・」
掃除用の箒を両手に持ったまま、おばさんは話し続ける。
「私は30年前、先生の高校の教え子です。体育の授業で先生が歌ってくれたことを覚えています」
話を聞いていると丸山(旧姓江上)由美さんの2年後輩で、彼女の夫はこの村で村長をやっているとのこと。いやはや、奇遇ですね。私の床屋さんとの再会もそうであったが、先生の教え子とも再会するとは。やはりここは東京都なんだと改めて感じた次第。このあと、村長に表敬訪問したのだが、この話が出て、村長も驚いていた。そんなこともあって、来年度9月のソフトバレーボール交流大会の話も前向きに進み始めた。

 昼前に「ははじま丸」で母島に向けて更に南下した。波が少し高かったせいか小ぶりの客船は前後左右に揺れた。このような時はじっと船底に横になっているに限る。2時間少しかけて母島に着いた時は頭が重くやや気分がすぐれなかったが、港の周りの深い緑の木々を眺めていると気分が晴れてきた。

すぐ間近に母島最高峰463mの乳房(ちぶさ)山が見える。天気が良ければ、この山頂から北硫黄島が遠望できるという。北硫黄島そして硫黄島も小笠原村に入る島々だ。先の大戦で硫黄島で日米の兵士が約2万人戦死したという。戦争が身近に感じられた。

 昼食を都営アパートの一角の部屋でとるという。部屋に入ると宮澤さんという福祉関係に従事している40歳くらいの男性が出迎えてくれた。大学を出た後、ブラジルにも渡り10年前に移り住んできたという。ブラジル帰りの彼のリビングルームはカウンターのある洒落た雰囲気が漂っていた。さらに話を聞いていると大学は私の長女が今年卒業した大学であること、そこのサッカー部出身であること、現在母島で子供たちにサッカーを指導していることなど、本人のことだけでなく島の事情も話していただけた。

 そのあとも島の人たちとゆったりした空気の中でたくさんお話ができた。20名にも満たない母島の子供たちは皆兄弟のようだ。上の子たちが下の子たちの面倒を実によく見ている。校長先生も一緒に短パン姿で参加していただき、子供たちも幸せ者だ。

 夜の教室では、岩本先生が小中生の部だけでなく一般の部の教室も張り切って頑張られた。ますます眼が落ち込んで疲労の色が濃く出てきた感があったが、2月以来の再訪で島民の期待を感じ取った先生が好きなようにやりたいようにお任せした。私は、その後の皆さんとの懇親会で夜遅くまでバレー談義で頑張らせていただいた。
(画像は母島の剣先山245mから沖港を望みながら先生、宮崎さん、私とで記念写真)

小笠原村父島・母島バレー行脚 その3


■12月8日(月)久し振りに陸地で寝て頭がすっきりとした。天候はうす曇りで気温22度。教室は夕方から夜にかけて行われるので、午前中と午後3時まではフリータイム。2年前は、この時間帯は「海上視察」というタイトルであった。初め「会場視察」の間違いかと思ったが、「泳げる準備をしてください」と言われて動力付きの小舟に乗せられた。湾を出てしばらくして「この辺りでいいでしょう。水中グラス付きシュノーケルと足びれをつけてください」日焼けした船長が言う。なんだ、沖合いでの水泳かなと思っていると「今です。この真下にいます。ゆっくりと船から降りて海中を見てください」との船長の声に促されて海中に入り足もとに目をやると、目の前にイルカの大きな瞳?があるではないか!驚いて海水をたらふく飲んであわてて海上に飛び出た。体長2m近いイルカは可愛いというより、ちょっと怖い。イルカとの通信能力がまだ備わっていない私にとって、2年前の「海上視察」はそれ以降私の得意分野ではない。

 さて、午前中、岩本先生は島の釣りクラブの人間と、岸壁でのシマアジ釣りに出かけた。私は村役場の中にある教育委員会に案内していただき、小笠原のスポーツイベントの歴史を調査させていただいた。返還20周年を記念して開催された小笠原諸島・伊豆諸島が一堂に集まっての駅伝大会が16年続いて解消された理由がこの地で解かった。東京都からの援助が打ち切られたのだ。つまり財政的な問題であったということだ。駅伝はその後も小笠原村内では12月に継続開催されている。小笠原諸島・伊豆諸島が一堂に集まっての島嶼対抗駅伝大会が解消されるのと前後して、島嶼を巡るソフトバレーボール交流大会が始まったのは何かの偶然なのか。

 島々を巡ってのソフトバレーボール交流大会は、再会の喜びを育むだけでなく、島々の住民の共感を育むことで島々の連帯感の醸成につながっているのではないかと考えている。スポーツの中でもとりわけ老若男女が取り組みやすいソフトバレーが最適ではないかと提案できる。島内で従来行われてきた、また行われている柔・剣道、相撲、野球、ソフトボール、ゲートボール、サッカーは性・年齢に制限があった。それは男性だけであったり、少年だけであったり、高齢者だけであったり特定の性・年齢に偏っていた。ソフトバレーボールは「誰でも」その人のレベルで楽しくプレーできる生涯スポーツの発明品だ。

 さて、教育委員会での聞き取り調査も多くの成果を得て、岸壁での岩本先生の釣りの成果を視察に行った。お隣の釣り師のクーラーBOXには大ぶりのシマアジが数枚と水タコ一匹が入っていた。わが師の岩本先生のBOXには・・・。

 島においての部活は結構大変だ。まず、中学生の部員数が足りない。中学校は島に一つだから練習試合の相手がいない。船で二時間の母島の中学校にはバレー部がない。高校にもバレー部がない。在校生の少ない子供たちは色んなスポーツをやりたがり、分散する。男はサッカー、女はバレーボールというわけにはいかないのだ。それでも父島中学校女子バレー部の二人の顧問の先生は諦めていない。夜の指導者講習会後に我々との夕食会にもお顔を出され、熱心に我々二人に指導法を聞いていた。 (画像は、手前が岩本先生で恰好が様になっている。翌朝の朝食にはお隣の黄色シャツの釣りの師匠が釣ったシマアジを刺身にして、山葵(わさび)の代わりに島唐辛子をチョンとつけて頂いた。)

小笠原村父島・母島バレー行脚 その2

■12月7日(日)
 朝7:00に起き、朝食をカップラーメンで頂く。船内には立派なレストランが備えられているが、料理の価格がやや高い。そこで旅慣れている方はおにぎりやカップラーメンなど船内に持ち込んで倹約する。
船内で岩本先生が母島に帰る青年と話している。顔なじみらしい。先生から手招きされ、私が二人にそばまで行き、その青年を紹介された。 握手しながら目鼻立ちがはっきりしているその青年が口を開いた。「渡邉さん、以前お会いしています。私の職場は渡邉さんお勤めの会社のすぐ近くでした。『あきもと』という理髪店です」なんと、私が25年前から頭髪のお世話になっている(私の頭髪の歴史を知っている)床屋さんにその青年は10年ほど前に3年間ほど勤めていたとのことである。いやあ、驚きましたね。9日には母島で講習会を開催するがその時に受講するとのことであった。
 さて、おがさわら丸(通称おが丸)は、昼過ぎの12:30に予定より1時間遅れで小雨の父島二見港に到着。波止場には、2年前に「行ってらっしや~い」との小笠原特有?の別れの言葉にて送別してくれた教育委員会の方々が出迎えていてくれる。昨日NHK総合TVで『篤姫』第49回再放送を見た。天璋院篤姫は幼馴染で恋心を寄せられている薩摩藩家老職の小松帯刀に別れは寂しいことではないと励まされる。「別れとは寂しいことではない。次に再会できる喜びをもって別れるのです」「行ってらっしゃ~い」には「帰ってきて再会しましょう」という意味が込められている。なんと憎い言い回しではないか。
 港近くにある定宿の民宿に行き、一休み。ゆったりした船酔いの余韻がまだ残っている頭を横になって休める。昼食は近くの観光客用らしいレストランでパスタ料理を頂いた。その後、小中学生の教室、夜にはストレッチ教室とソフトバレー体験教室。遅い夕食を頂き、民宿に戻ったのは10時半を回っていた。岩本先生も少し目を窪ませて疲労感が出ていた。この日、海は時化て乗り継ぎの母島行きの船は出なかった。民宿にはその船に乗れなかった母島の関係者が7名ほど同宿していた。
(画像は接岸している「おが丸」。10日(水)に帰る日まで3日間停泊して内地に持ち帰る電化製品廃棄物、小笠原で採れた産物、郵便、宅配便などを積み込む。)

2008年12月13日土曜日

小笠原村の父島・母島バレー行脚

 12月6日(土)から11日(木)まで、東京都小笠原村に行ってきた。ここのブログで数回に分けて報告したい。

■12月6日(土)
朝9時に竹芝桟橋で今回の小笠原村バレー行脚のお話を持ってきていただいた岩本洋先生と落ち合った。2年前に訪問した時もやはり岩本先生からであった。その時は小笠原村に関してほとんど知識もないまま、通常のバレー講習会のつもりで同行した。今回は大学院の修論作成の聞き取り調査の目的もあり、事前に小笠原の知識を学習しての訪問となった。
 朝10:00に竹芝桟橋を出港した小笠原丸は1,000km離れた小笠原村(緯度は沖縄とほぼ同じ)の父島の二見港を目指して25時間30分の船旅に出た。船室は1等船室で2段ベッドのある4人部屋。さっそく、岩本先生と互いの近況報告と今回の小笠原行きの趣旨を伺った。招聘があったのは小笠原村教育委員会からで、父島と母島における村民へのバレーボール指導で3日間を夕方は小中生への指導、夜は一般と指導者に講習会というスケジュール。
 岩本先生に早速、修論のテーマでもある島嶼ソフトバレーボール(島々を巡ってのソフトバレーボール交流大会)の歴史を改めて聞いた。ソフトバレーボールを岩本先生に紹介したのは私なのであるが、先生はそのソフトバレーボールで島嶼(とうしょ:島々の意味)を巡り開催することで共感を持ち、そこに内地(島以外の陸地:島の人たちの言い方)からのチームもオープン参加していただき、スポーツ・ツーリズム(スポーツと観光を合体させた概念)として経済的効果も出せないかと考えたわけである。
 先生とのお話は3時間にもわたったが、時間はたっぷりとある。遅い昼食を先生持参のカップ麺を頂き、船酔い止めを念のために飲んで、ベッドにごろりと横になって小笠原村に関しての書籍を改めて読み始めた。
 欧米系住民が定住し始めたのは1830年で、日本はこの頃は幕末である。1876年(明治9年)に日本政府は「小笠原開拓」を決議し、小笠原は正式に日本領土として国内外に認められた。その後、太平洋戦争勃発、強制疎開、敗戦、アメリカ占領そして日本返還と小笠原の人たちは多くの困窮を強いる生活を余儀なくされた。今年がアメリカから日本返還40周年。戦後23年間にわたり米軍に占領され英語教育を受け、返還後は一転して日本語教育となった。戦後生まれの若者達の日本語学習(特に読み書き)は並大抵ではなかったであろうと推測される。
 伊豆七島の八丈島沖を過ぎると、携帯の電波も通じなくなる。小笠原丸が夜の太平洋上を滑るように推進する。掻き分けられた波は濃緑色の海水と白い飛沫を見せている。明日の11時30分には父島に着く。 
(画像は竹芝桟橋の横幕。行こう小笠原へ、小笠原返還40週記念の文字が読み取れる。)  

2008年12月3日水曜日

全国ローソンカップ千葉県予選に出場


 昨日は第4回全国ローソンカップ千葉県予選会第2日目であった。会場は成田市の中台体育館。コート4面取れる広い体育館だ。我がチームも先週2回戦を勝ち抜き、昨日3回戦を戦った。相手は一昨年の全国家庭婦人大会に出場した習志野市の強豪である。
 ママさんと言えども、この千葉県でも上位16のチームには、170cm前後の選手が前衛にずらっと3~4人並ぶ。県内の中学ベスト16とお互いのルールでゲームしても互角の勝負になるであろう。いや、ママさんの方が集中力と経験がある分勝っているかもしれない。
 我が相手のチームにも170cm前後が4~5人前衛にいて、クイックや時間差を織り交ぜて攻撃してくる。特にサーブのスピードとチャンスボールのセッターへの返球率が高かった。我がチームは善戦した。これからの課題は県内16以上のチームとの定期的な練習試合で経験を積むことが大事だ。我がチームの監督は抜け目がない。早速相手監督を捕まえて来月の練習試合を予約してきたという。
 試合後のミーティングでメンバーに次のようにお願いした。これからの大会では勝ちあがっていく試合が多くなってくると思う。千葉県には大きな体育館が少なく、連盟としても土・日の会場はなかなか確保できない。従って、平日の体育館の確保になり、平日での試合となる。つまり、仕事を持っているメンバーが多い昨今、職場にお休みを頂いての大会出場に成るわけである。休みを取るのは、特に年休は権利であっても、職場の仲間は休みの理由は知っているものだ。気持ちよく休みを取らせていただく為にも、普段から職場の仕事はきちんとこなしておこう。特に、職場全体に関することで嫌な仕事は積極的に自ら進んでやっておこう。そんなことをメンバーにお願いした。
 今回試合に出ないで、メンバーの幼子の面倒を進んで見てくれたベテランメンバーもいた。手伝いに来てくれるパパさんも定着してきた。「たかがママさんチーム」であるが、我がチームは組織的に良くマネジメントされている「されどママさんチーム」になりつつある。普段の練習で常時5,6人の幼児の歓声がママサンの練習の声とハーモニーとなって体育館内に響き渡っているチームも珍しいと思う。子供達の安全性への配慮にいつも苦慮しているが、これからのママさんバレーのあり方の一つのモデルケースになるのではないかと自負している。
(画像は試合後、メンバーの皆と近くの関東でも参詣人の多い成田山新勝寺(なりたさん しんしょうじ)にお参りの風景。お参りより、花より団子で、御土産屋さんでの大福や煎餅など食べ物の買い物が主であった。)