2011年10月30日日曜日

10/30(日) 来年度ルールブックの校正

 来年度板ルールブックの校正刷りが印刷業者から送られてきた。ビーチ、ソフト、6人制、9人制の4種別全てが送られてきた。
 今年のルールブック編集は、既に2回行っており、例年より早く校正作業に入る。この後も数回の再校を行い、誤植・誤字・体裁を正しくする。ルールブックに誤植・誤字があれば、現場が混乱するのは必定。念には念を入れて校正作業を行わねばならない。訂正文を出すというのは、校正作業をしっかりやっていませんでしたと編集者の怠慢をさらけ出すことと同じである。たとえ、印刷業者のミスであっても、編集者(私)のミスになる。
 私の担当のソフトバレーボールの校正刷りは、日本ソフトバレーボール連盟審判規則委員会委員全員にコピーして明日郵送する。私一人だけの校正の眼では、安心できない。複眼的に校正することで万全を期したい。

10/29(土) 新メンバー歓迎会

 大穴ソフトバレークラブに32歳のヤングママが男子中学生を連れて加入してきたことは8月頃に、ここのブログで報告したと思う。今夜は、彼女の歓迎会を北習志野駅の近くの居酒屋さんで開催した。出席者は、総勢で16名はいただろうか、女性が2/3のかかあ天下で構成されているのが我がクラブの特徴である。明日は、日曜日ということで、気持ちもリラックスして、カラオケ二次会に突入した。
 カラオケは、まずは、恒例のデュエットで始まる。73歳の代表のお母さんと私との「なにわ恋しぐれ」から始まる。
 年に4回ほどは、日本の祭事(新年会、お花見、忘年会など)と関連した集まりや今回のような新メンバー歓迎会を行うことで、メンバー間のコミュニケーションを図っていくことが必要だ。コート上だけではお互いによく知ることはできない。家族だけでなく、地域住民の結びつき、そしてスポーツクラブのような愛好者同士の縁も地域社会の絆には必要だ。

10/28(金) ママさんバレー練習試合

 事情があって、この1年間指導していた千葉市のママさんチームのコーチを1週間前に辞任した。辞めたことを、先週金曜日に初めて訪問した船橋のママさんチームの代表者に話をした。代表は、「それでは、自分達のチームに来てくれるのですね。メンバーに聞いてみます」と、私の考えてもいないことをメールで送ってきた。そして、24日(火)には「メンバーも歓迎しています。よろしくお願いします」とメールが送られてきた。
 終わりがあったら、次のスタートが待っていた。これも「何かの縁」と自然体で受け入れることにした。暫くは、ママさんチームのコーチには就任するつもりはなかった。毎週、火曜日にはソフトバレーの練習、金曜日にはママさんの指導、週末は仕事でバレーイベント活動や講習開講師活動で定年前のおじさんにしては結構多忙な日々であった。ちょっと無理をしているところもあった。
 今回の船橋ママさんチームの指導は、私の我儘で、私が行きたいときだけ行くことにして頂いた。指導のやり方も、こちらから提案せずに、チームが要望することに対して指導することとした。アドバイザーのような関係だ。
 そして、今夕は練習試合で、さっそく帯同することとした。相手は千葉市のチームで、昨年度の全国ママさんバレー出場チームだ。先月の「第1回全国冬季ママさん大会」県予選会で3位に入っていた。決勝で、船橋ママさんと対戦する予定だったらしいが、相手チームとの相性が悪かったのか、準決勝で敗退した。
 3セット行い、チームの課題が見つかった。サービスが攻撃的になっていない。数名はスピードのあるサービスを実行できるものの、ほとんどのサーバーは勢いがない。第1サービスも第2サービスもたいしてスピードに変わりがない。恐らく、サービスの基本的な理論を理解していないのであろう。どこのママさんチームもそうであるが、学生時代の経験でプレーをしているママさんプレーヤーが多い。理論や戦術をママさんチームに入ってから指導されたという経験をほとんど持っていない。従って、講習会などで基本をきちんと指導すると、その時は上達する。
 船橋のチームは、12月初旬に福岡県で開催される「第1回全国ママさん冬季大会」に千葉県代表で出場する。それまでの1カ月間の課題は「攻撃的なサービスの実行」となった。毎週1回は県内の強豪チームと練習試合を行っていく。
 
  

2011年10月29日土曜日

10/26(水) たまには書籍を購入




 会社での昼食後の昼休みに、近くの本屋さんに行った。ここは神田の古本屋街。ひときわ大きな書店が、辞書でもおなじみの三省堂本店だ。きょうは、購入する本が決まっていた。今月、亡くなったばかりのアップル創業者であるスティーブ・ジョブズ氏の伝記本である。

 まるで、自分の死期を悟って、著名な伝記作家であるウォルター・アイザックソンに数年前から依頼していたようだ。書店には日本語版と同時に英語版もあり、私は躊躇なく両方購入した。私の英語学習の1つで、対訳的に読み進めるのが以前からの習慣となっている。まず、英語、次に日本語を読む。また、英語を読む。ほとんど辞書は引かない。8割理解できていれば、英語版だけで読み進める。気のきいた英文があれば、手帳に書き写す。

 ジョブズ氏は、自身の死でさえも、亡くなった直後を見据えて、伝記を世界同時出版することでアップル社の宣伝に使っている。死んでも経営者なんだね、この人は・・・恐れ入った。

(画像は、購入した2冊の本。主に、通勤の電車内で読んでいるだが、2冊同時に持っては読みにくいので、自宅のコピー機能のあるプリンターで数ページずつ裏紙にコピーして持ち歩き、読み比べている。本の裏表紙に20歳代のスティーブの写真がある。彼の瞳は問いかけている。「僕はITで世界を変えた。君は?」私は、世界と言うほどのおおきな空間ではないが、バレーボールの大好きな仲間を増やす空間を引き続き創っていく)

10/25(火) ソフトバレー練習日

 今夜は、練習会場の大穴中学校に行くのに、同じメンバーで近くに住んでいる木島さんという63歳になる男性と一緒に向った。一緒に向かった、と言うよりも、木島さんの車に乗せて頂くために迎えに来てくれるようにお願いしたのであった。
 木島さんは、近くに住んでいるといっても、私の自宅から車で10分ぐらいは離れている。我々の「大穴ソフトバレーボールクラブ」に入部して3年目を迎えようとしている。大穴クラブは、創設して21年目になるので、木島さんは新しいメンバーということになる。木島さんは、3年前の市教育委員会主催の「ソフトバレーボール教室」を受講したことがきっかけで入部してきた。講師は私であった。、
 実は、その教室で、私は「花と蝶作戦」を密かに行っていた。60歳以上の男性の少ない我がクラブに木島さんを迎え入れるための作戦であった。その作戦とは、受講者の中に我がクラブの選りすぐりの50歳以上の女性メンバーを受講させ、木島さんを我がクラブに入部させんと計っていたのである。勿論、女性達もそんなことは知らない。結果的には、わざわざ、車で片道40分もかかる大穴クラブに入部されたのであるが、どちらが花で、どちらが蝶であったかは定かではない。
 練習会場の大穴中学校に向かう車中で、世間話をした。木島さんは、県立船橋高校バレー部出身で、時の人である野田総理大臣の先輩に当たる。野田さんは、ちなみに柔道部であった。
 サウスポーで60歳代にしては長身の木島さんは、我がシルバー年代のエースである。来年の宮城県で開催される「ねんりんピック(60歳以上の交流大会)」には、大穴クラブが千葉県代表での出場が決まっている。木島さんの左腕が爆発するシーンを今から楽しみにしている。
 練習の帰りも送って頂いた。どうも癖になりそうで怖い・・・。

2011年10月27日木曜日

10/24(月) 電車に乗ってばかりの一日

 義父が入院している千葉県旭市の病院に、会社休暇を取って、お見舞いに行った。船橋から電車で2時間かかった。義父も82歳になったであろうか、最近色々な病気を併発して足腰がめっきり弱くなってしまった。孫達が結婚してひ孫が成長する姿を見て欲しい。
 午後から神奈川県藤沢市に移動した。こちらは2時間半かかった。先週亡くなった、ソフトバレーの仲間の鈴木さんのお通夜が夕方6時から始まった。享年70歳はまだ早い。日本ソフト連盟理事長の成田先生も見えた。その後、大和南高校女子バレー部の前監督の飯塚先生や小田急バレークリニック事務局長の岩本先生など故人と所縁のある関係者が集まった。
 お通夜の後、岩本先生と久しぶりに近況を語り合った。
 私は、69歳までは健康で生きていたいと考えている。今の30歳前後の若いバレー指導者達に短期でも海外コーチへの道筋を作ってあげたい、と私は考えている。そのために、あと10年間は健康体でいたいと願っている。
 若い指導者達は、海外を肌で知って、日本に帰って、その体験を生かして指導の道を歩んで欲しいと願っている。これからの子供達は、大学などを卒業して、望む望まないにかかわらず、グローバルな世界で働き、海外と戦っていかなければいけない。海外体験を持つバレー指導者に育てられた子供達は早いうちから開かれた世界観を持てるようになるであろう。
 8時ごろになって、藤沢駅構内のコーヒー店で岩本先生と別れた。東海道線から総武線快速に乗り換えれば、1時間半ほどで自宅のある西船橋駅に到着するのであるが、東海道線にタクシーが8m上の道路から転落する事故があり、上下線とも不通になった。運転手は70歳代で重体と携帯のニュースが流れていた。仕方がないので、各停を乗り継いで2時間半かけて西船橋駅に着くこととなった。自宅に着き時計を見たら、11時を回っていた。
 きょうは、電車になんと7時間近く乗っていたようだ。色々な人の生き方、亡くなり方を考えた日であった。

10/23(日) 東洋高校学園祭(白龍祭)



 東洋高校との関わりは、次女が卒業しても続いている。学校後援会の理事と父母の会OB・OGの会で「さいかち会」の副会長で次女が卒業して5年目の今年も関わっている。



 きょうは、学園祭の2日目で、この日だけが後援会、さいかち会そして現役の父母の会(PTA)の外郭団体が生徒の邪魔をしないように、出店する。朝、8時半に学校に集合して、役員が経営している和菓子屋さんからお餅、小豆、大福などを持ち込み、格安で販売する。2年前までは、お餅は実際に学校の生徒通用門の前で杵と臼で餅を搗(つ)ていた。



 4時に学園祭も終わり、現役父母の会の役員や父母OB・OGの役員が近くの居酒屋に集まり、慰労会を開催した。80人ほど、いたろうか・・・途中から前校長も見えられ楽しく話は弾んだ。

(画像は、私が担当した教室内での販売の様子。最後に多少残った赤飯などは、もう一つある外郭団体の同窓会の幹事が全て買い取ってくれた。売上の収益は、生徒会に寄贈している。慰労会には、私か父母の会会長の時に創設した「おやじの会」のメンバーも10名ほど参加した。創立105年目を迎えた東洋高校、これからどのように変わっていこうとしているのか・・・否、どのように変えるのか、外郭団体としてできることは少なからずあると考えている)

2011年10月22日土曜日

10/22(土) 訃報

 神奈川県藤沢にお住まいの鈴木和子さんから電話があり、ご主人が昨晩お亡くなりになったことを聞いた。1ヶ月前から療養中であった。手術は上手くいくものだとばかり思っていたので、信じられなかった。手術の後、意識不明のまま逝ってしまった。
 ご主人のお名前は和夫で、お二人とも平和の「和」が付いている。自宅では「カズ」「かず」とお互いに呼びあっているのかなと、調査のために何度か泊まり込みでご自宅にお邪魔したことがある。意外にも「ちょっと」とか「おい」とか、そんな平凡な呼び方であった。お二人とも再婚であった。バレーボールが縁で結ばれた。ソフトバレーの混合の試合にも夫婦で良く出場されていた。和夫さんが声を荒げて話しているところは見たことがなかった。いつも髪が整えられてあり、背筋も伸びて、紳士であった。
 和夫さんのお嬢さんが県立大和南の女子バレー部員であったことも、私と和夫さんの共通の話題であった。
 訃報を最初に受けたものとして、日本ソフト連盟理事長、各委員会委員長に連絡した。役員のほとんどは、昨日から始まった「ソフトバレー・シルバー交流大会」の会場地である福島市に集まっていた。
 月曜日がお通夜である。最後のお別れをしてきます。享年70歳は、まだ早い。
 合掌。

10/21(金) ママさんバレーボールチーム訪問~朝も夜も

 午前中は、埼玉県三郷市の三郷ママ。4ヶ月ぶりの訪問である。ここの代表で監督は、ご存知モントリオール金メダリストで主将であった飯田(現姓:神白かじろ)高子さん。50歳以上のチームと30・40歳代中心の2チームを一緒に指導している。
 来週は地域の大会というので、ゲーム中心の練習であった。この日、私が指導したのは「下がる」ということ。具体的には、スパイカーがブロックの後や連続スパイクのためにネットから下がること。また、レシーバーがブロックフォロー(以前はスパイクカバーとも言っていた)のために前方に詰めて、ボールが相手コートに入った場合にスパイクレシーブを行うために後方のスタート(ベース)ポジションに下がること。前方や横の方向に移動するのは、日頃人間の行動で良くあること(日常的)である。しかし、後方に移動するということはまれ(非日常的)である。バレーボールでは、後方に移動する(下がる)という動きが大事である。大事であるが、実際の練習ではおろそかにされている。レベルを中級から上級に上げるには大事なポイントである。
 この日、50歳以上のチームのセッターが休んでいるということなので、私はセッターに入った。途中で飯田さんもアタッカーに入って、速攻なども打ってもらった。飯田さん、確か御年・・・63歳であったかと思ったが、まだまだ速いスイングで私のいい加減なトスを打ちまくり、ブロックをビシャ、ビシャ止めまくり
、金メダリスト、センタープレーヤーの現役時代を思い出させた。
 昼食を共にしていったん電車で自宅に帰った。夜の7時からは、以前から約束していたのであるが、私の住む船橋市内で、活動する「かつしかクラブ」さん。練習会場は、自宅から歩いて25分のところにある葛飾中学校体育館。実は、この中学校は私の2人の娘が卒業した中学校である。中学校の女子バレー部はその時も今でも県大会には行けないレベルだが、ママさんチームは全国ママさんに数年前に県代表で出場している。そして、今月行われた第1回全国冬季ママさん大会にまたしても代表で出場することが決まった。スタメンの4人が50歳台というのが凄い。クラブの歴史も今年で35周年という現在も継続している県内のチームでは最古参という。チームをまとめているのは湊さんという50歳台のバックセンターを守る小柄な方。県家庭婦人連盟の役員でもあり、コート上を子リスのように機敏に動きまわる。練習の途中で、地元紙の取材などがあった。主に体格の良いエースのママさんが対応していたが、練習後にこの人が私の側に来て、「渡邉さん、クラブチームのエバというチームの代表だったでしょう?」と20数年前の話を持ち出した。
 「私は、その時、埼玉県でエンジェルスというチームにいました」
「君はどこの高校の出身だったの?」
「細田学園です」
「おお、あの時あたりから県でベスト4常連になったね」
「前監督の富樫先生から現在の伊藤先生に監督が交代したのもその時だったね」
「エバには元全日本の選手がたくさんいましたね。日立の武内さん、内田さん、ダイエーからもリキさん、小野さん、日体大のレギュラーだった夏さん、アケさん・・・え?アケさん結婚されたんですか?・・・」
 このエースの子(ママさんに子を付けるのは可笑しいのだが、記憶は当時に還っている)は良く知っているな。県ベスト4クラスでもバシバシ!スパイクを打って、クラブチームでも相当活躍したのでしょうね。彼女が現役時代に見たベンチの私は「変なおじさん」が座っているとしか記憶がなかったんでしょうね。あの当時から、今も変わらぬ同じ老け顔の私ですから、昔の人からは直ぐに思い出されますね。これが私の長所なのかしらねえ。

10/20(木) 国分寺市教育委員会から講師の要請

 2週間前に、東京都バレーボール協会から講師の助手の打診が入っていた。12月4日(日)に国分寺市で講師の助手なんだがやってくれるかな?東京都バレーボール協会の知り合いの役員から依頼が入った。なんでも2013年の東京都国体の関係でジュニア対策としてやるということである。その時は、私のスケジュールも確認できなかったので、返事は後日ということで伸ばしていた。
 12月4日は、私が住んでいる船橋市にてソフトバレーボール近隣交流大会を毎年開催している。第2回までは、私が総監督を務めているる船橋大穴クラブ単独で、1泊2日で隣県からも招待して30チームほどでスタートして、今年で13回になるであろうか。第3回目からは船橋市バレー協会に移管して再スタートしている。今年は東京都協会からのお話を優先させていただこう。うちのクラブの連中からはボヤかれるであろうな・・・。
 東京都バレーボール協会からの依頼というのは、私の講師経験でも数少ない。あまりに身近にいるから協会役員も気にも留めていなかったからであろうか。理由が分かった。主任講師が先日三宅島にも行った白井貴子さんだからである。彼女と一緒にできるのはナベが良いであろう...と、これは私の推測である。対象は小学生ということである。
 そして、本日、主管の国分寺市教育委員会から電話があった。電話口で、担当の係長の女性の方が「本日か明日に打ち合わせお願いできますか、可能でしたら、本日でしたら午後に御社に伺います」と申し入れがあり、本日にして頂いた。
 午後に、担当の係長とお会いし打ち合わせに入った。挨拶を交わしているうちに、彼女の身元調査のような話になり、出身大学のこと、高校の教員をやっていたこと、青年協力隊に応募したかったこと、スポーツ行政に従事したく公務員試験を受けて現在に至っていることなど、まるで私は試験管みたいに質問ばかりしていて、肝心の講習会の話は10分しか話せなかった。話の中で、来年度は「親子ソフトバレー」の講習会を国分寺市で開催したいと彼女は眼を輝かせながら話して帰って行った。
 東京都の中でも国分寺市は人口10数万人の地味な存在である。かつて女子バレーの名門であった「日立」の体育館に行くときは、この駅で降りてタクシーに乗って行ったものである。彼女のような社会体育に専従する公務員がこれからの国分寺市のスポーツ振興を盛んにしていくであろうと期待している。

10/19(水) 静岡からのお叱り?安否確認?

 夕方、会社からの帰りにバッグに中に入れている携帯が振動した。静岡県バレーボール協会指導普及委員長を務めている増田先生からであった。
 「渡邉ですが・・・こんにちは、何かありましたか?」
「ナベさん、ここのところブログが止まっているので、どうしたかと思って、死んじゃったんじゃないかと思ってね」
「ああ、すみません。先生も私のブログに眼を通しているんですか?先週末から三宅島に行ってたもんで、ブログを打てなかったんです。さっそく、これから家ですので、まとめて打ちます」
「ナベさんのブログは、毎日朝にパソコンを開いて読んでいますよ」
 増田先生は日本ソフトバレー連盟指導普及委員もされている仲間である。8月のFIVB国際バレーボール連盟公認コーチ講習会にも受講生として参加され、優秀な成績でレベル2に合格された。コーチ講習会では同室となり、長老部屋として若い受講生たちや、時にはなんと講師まで入り浸っていた。これは増田先生の人徳のなせる技であろう。増田先生所有の特大焼酎と食べきれないほどのおつまみが長老部屋にあることを受講生たちが知っているからではないと思っている。私も晩酌では、焼酎を先生が静岡県から運んできた静岡特産のお茶で割る「お茶割り」にはまってしまい、自宅に戻っても「お茶割り」晩酌生活であった。しかし、お茶割も1週間と続かなかった。理由は、やはり増田先生が持ってきた本場の静岡茶で割らないと美味しくないということだ。

10/18(火) 体操世界選手権、個人総合3連覇の内村航平君と東洋 



 私が、三宅島に行っている間に、内村君が凄いことをやってくれた。第43回世界体操選手権大会にて、男子個人総合にて男女を通じ、初めて3連覇の快挙を成し遂げた。
 意外と知られていないのが、彼の出身高校。実は、男子バレーで、昨年春の高校バレーで初優勝を飾った東京の東洋高校である。私の次女と同期生でもあり、卒業式では東洋高校父母の会(公立高校のPTAにあたる)会長2年目を務めていた私が祝辞を読ませていただいた。
 体操部は、学校内で練習をやっていない。世田谷区にある朝日生命体操クラブにて練習を行っている。内村君は、九州の親元から離れ、東洋高校に入学して2年生ごろから選手として急速に頭角を現わしてきた。これは、彼の天性の才能とクラブでの指導は勿論であるが、学園生活から得られたものも大きいと思う。
 高校時代は子供から大人に急速に変わっていく時期。この時期に体操だけの英才教育だけ受けているのではなく、同年代の仲間との高校生活のなかで人間関係を作っていくこともその後の人格形成に重要なことである。その意味で、彼が高校で普通の高校生活を送ったことは良かったと考えている。
それも、東洋高校で。
(画像はAFPBBニュースからの彼の勇士)

2011年10月20日木曜日

10/17(月) 三宅島ソフトバレーボール-4



 東京湾に入ると、波も低く、帰りの船はほとんど揺れずに海面を滑るように竹芝桟橋に向っていく。

 午前中は、島内観光ということで教育委員会の佐久間君に案内してもらった。溶岩に埋もれた学校、噴火でできた神秘的な大きな池、やはり噴火で削られた山、噴火で今でも村の中を流れ続ける有毒ガスなど、全てが噴火がらみである。

 午後2時半にイルカの島で有名なお隣の御蔵島を経由してきた客船に乗って、夜の8時半に竹芝桟橋に着いた。

 白井さんとは12月頭に国分寺市教育委員会依頼の小学生バレーの指導でまたご一緒する。船橋の自宅に戻って布団に入った。揺れずに寝れるのは久しぶりである。直ぐに眠りに落ちた。

(見送りに来てくれた三宅村教育委員会の方達。お互いの姿が見えなくなるまで手を振り見送るのが島の見送り方、見送られ方である。お世話になりました~~」

10/16(日) 三宅島ソフトバレーボール-3








 本日は、16チームが集まっての「第3回村民ソフトバレーボール交流大会」開催日。開会式が始まる前に、村長、警察署長、村の総務委員長、教育委員などが、続々白井さん目当てに挨拶に見える。白井さんは、50歳以上の男性だけでなく女性にも知名度は高い。挨拶に見えられた方達は、白井さんが持参した金メダルを胸にかけて頂き、記念写真を撮っていく。

 開会式では、村長の始球式に始まり、予選リーグで3試合、決勝トーナメント(敗者戦あり)2試合で、全てのチームが5試合を行った。我々講師チームも予選を1位で通り、決勝トーナメントでは2セットともジュースで惜敗し3位決定戦に回った。敗者の弁としては、現地で助っ人を頼んだ女性がソフトバレーは全く初めての人であったということ。この方が下手であったという訳ではない。白井さんと一緒にコートにいるだけで緊張してしまったらしい。私の目から見ると、確かに、ミスをして女王様の眼が光ると私でもプレッシャーになってしまう。もう一つの言い訳は、年齢がフリーなので、我々講師チーム3人の58歳、59歳、60歳に助っ人の30歳代が入ってもチーム平均年齢は高い。年齢の高さでは文句なしの第1位である。助っ人で入って頂いたエミコさん、ミヤ子さん、ありがとう。

 3位決定戦は、平均年齢30歳代のチームと行った。準決勝までは、戦術が定まらなかったが、ここにきて私の采配が功を奏し2-0で勝利して講師の面目を保った。白井さんからは「ナベさん、準決勝の試合でも采配の功を奏して欲しかったね、ウン」と言われてしまった。

 戦術としては、相手が3-1のシステム。ブロッカーのフォーメーションが前衛に3人、後衛に1人なので、コートの中に強打を打てなくなる。そこで、サイドブロッカーのブロックアウトを狙う作戦にしたのである。つまり、スパイカー1人対ブロッカー2人の対戦を避け、スパイカー1人対ブロッカー1人の対戦にしたのである。1対1では攻撃側が有利である。スパイクは、全てストレート側に打ち、ブロッカーの片手外側に当てて、ブロックアウトでコート外側に弾きポイントを稼いだ。3位決定戦はあっけなく終わった。

 負けた相手から、今度は質問攻めにあった。どうしたらもっと上手にプレーできるか?「先生達の来ているウインドブレーカーを着たら強くなるかもしれない」と、相手チームの中の20歳代の若妻が、試合後に着ている私のウインドブレーカーをジーッと見つめていた。結局、講師達チームがお揃いで着用していたミズノ製の秋物新製品を私のものだけあげることにした。

 閉会式を終え、宿に帰り、主催者の三宅村体育指導委員会のメンバー11名が懇親会を催してくれた。島の地酒の焼酎「雄山一(おやまいち)」を皆で飲みながら、夜も暮れていった。

(画像は、開会式で挨拶する平野三宅村村長。始球式をミスなく一回のサービスでクリアした腕前はさすがです)

10/15(土) 三宅島ソフトバレーボール-2

 早朝、4時半に眼が覚めた。外はまだ暗い。船は風のせいで波が2mほど高く、港の接岸にやや苦労したものの無事着岸できた。別室で寝ていた白井さんは、すでに起きていた。岸壁に降り立っても、頭の中がまだユラユラと揺れている。
 島の教育委員主事の佐久間君の出迎えの顔が薄暗闇の中に見えた。1年振りの再会である。30歳になったばかりで独身。白井さんを紹介すると、小柄な佐久間君は一瞬ひるんだようで、後ずさりした。白井さんは、実際の身長の182cmより大きく見える。肩幅が広いせいもある。決して「態度も大きい」なんて口に出しては言えない。
 車に荷物を積み込んで、民宿に向かった。民宿に向かう間も白井さんのお話は止まらない。山本リンダの「♪どうにも止まらない!♪」のメロディーが私のユラユラした頭の中で流れ続けた。15分ほどで民宿に着き、しばらく仮眠をとり、朝食を頂いた。
 午後から審判研修会が始まった。明日の交流大会に出場される16チームから2名ずつ参加するとの佐久間君の話であったが、集まってきたのは60名もいた。3回目の講習会ともなると、素人同然であった佐久間君も進歩していて、大型コピーでルールブックからハンドシグナルの図を抜き取って壁に張ったり、用具も事前のチェックが済まされており準備が整っていた。
 島では2,3年で公務員の移動がある。彼も来年は他の課に異動するかもしれない。今回は念入りに会場風景を含めて、全ての備品、講習会・代表者会議・開会式・試合風景・閉会式・懇親会の様子を画像に収めておくように依頼した。文字だけでは引き継ぎ資料として不十分である。デジカメで画像として残しておくことで十分な資料になる。
 講習会を終え、民宿に戻り、講師陣の3名だけで夕食。夕食後には、白井さんのありがたいお話を聞く時間である。「白井さんの講話」と、私は名付けて、片手にビール、方耳をお話に傾け続けた。望月さんは、何か話したいのであるが、白井さんの速射砲講和には隙間がなく、あえなく「うん、うん」と相槌を打つのが精一杯で、そのうち畳に座っていたのが畳の上に横になって、講和を子守唄♪に寝入ってしまった。 

10/14(金) 三宅島ソフトバレーボール-1

 伊豆諸島の三宅島は11年前の2000年に雄山(おやま)が噴火して、溶岩が島の住民地区を横切り、約400戸を飲み込みながら海辺まで流れ込んだ。島民は速やかに避難し、幸い死者はいなかったものの、有毒ガスも流れ、全島民がしばらくの間、離島を余儀なくされた。その後、島民が帰島し始めた。しかし、噴火前の約3,7000名のうち約1,000名ほどは東京の避難地で家を建てたり、仕事に従事したり、生活の基盤を避難地で築いており、帰りたくとも帰れない。また、島には職がほとんどない。また、三宅島は火山島でありながら、鳥が多く生息している島でもある。バード・アイランド(鳥の島)と呼ばれている。わが国には約550種の鳥類がいるが、その半数は三宅島にいる。その理由として、三宅島には鳥の天敵である蛇がいない、と言われている。
 その三宅島の教育委員から、ソフトバレーの講習会と村民交流大会運営指導の依頼が来た。今年で3回、3年目である。1回目のとき、夜の懇親会の時に50名ほどの若者が集まった。村長が挨拶に見えて「こんなに若い人が集まったのは、噴火以来だ」と驚いていた。
 第1回は、私だけの参加で、昨年の第2回は私と岩本先生。今年は私とモントリオールオリンピック金メダリストで世界の大砲の白井貴子さん、そして茨城県結城市でソフトバレーボールリーダーとして活躍している望月さんの3名である。
 この日の夜はあいにく小雨交じりの天候で風も強かった。夜10:20発の乗船に間に合うように、竹芝桟橋に集まった。寝るまでの間のナイトキャップのために缶ビールを購入し、いざ乗船開始。普段は釣り客が多いのに、この日は30歳代の男女が100名くらいか?多かった。そうだ、昨年もそうだった。イオンが主催の植林イベントのボランティアの方達であった。溶岩と有毒ガスではげ山になったところに毎年この時期に植林している。
 1等船室は、我々3人以外は、まったく乗船客がいなかった。植林イベントの方達は、料金の安い船底の方で休んでいる。三宅島までの時間は6時間ほどであるから、若い人達は畳部屋で仮眠をとるだけで十分なのであろう。
 8人部屋の広い1等船室で我々3人は近況を語り合った。いや、正確には、白井さんだけが速射砲のごとくお喋りをしていたという方が、・・・もとい・・・白井さんの貴重なお話を寡黙な男性2人がお聞きしていたということです。
 明日、早朝5時に三宅島に着く。4時45分には起きなければならない。早起きが苦手な私としては、起床できるかどうか不安なところだが、白井さんから目覚まし役を仰せつかったので起きなければならない。白井さんから携帯で「起きろ!ナベ!」と言われた方が確実に飛び起きるのであるが・・・。

2011年10月19日水曜日

10/13(木) 10/10へのコメントに返事

 コメントを頂いたテビさん。神奈川県立藤沢高校女子バレー部OGだったんですね。18年前だったでしょうかね、その当時、監督の飯塚先生(前:大和南監督、現:相模女子大監督)は県立藤沢高校を率いて全国に2年に1回は出れるようになってきていました。私は月に1回の割合で学校を訪問していました。その時に、40数人の部員にJR藤沢駅でプリンを買ってお土産にしていました。
 当時も今でもそうだが、飯塚先生のチームは、一見見る限りでは強そうなチームではなかったですね. しかし、派手さはないが、ミスの少ないチーム作りを身上にして、特にサーブレシーブにかける時間は練習時間全体の半分以上取っていました。若い指導者の練習は攻撃重視だが、ベテラン指導者は堅実なサーブレシーブ(Aパス80%以上)と確実なチャンスボールの処理(セッターが速攻のトスを上げられる)、そしてスパイカーが打ちやすいトス(2段トスを含めて)の練習に時間をかけます。
 テビさん、またコメントくださいね。飯塚先生とは22日(土)中央大にて会います。その日は今年の春に就任したばかりの相模女子大学女子バレー部の入れ替え戦です。勿論、先生のところは、関東7部?リーグで優勝して、上部リーグの最下位との入れ替え戦です。相模女子大の実力は、現在のところ大和南の1年生と練習試合を行っても負けちゃうレベルですが、来年春は飯塚先生を慕って全国レベルの高校生が入学してきます。期待できます。

2011年10月13日木曜日

10/12(水) 1カ月ぶりに市川市ママさんチームに再訪

 先月、お隣の市川市のママさんバレーチームに指導に行った際、お土産に特産品の梨を頂いた。これが甘くて美味しかったので、そのお礼に今夜また指導に伺った。
 先週、市川市内の大会があり、不甲斐ない成績で代表の吉田さんは憤慨していた。敗因はサーブレシーブがダメ、たまにセッターに返っても、トスが乱れる。サーブの威力がない、ダブってしまう・・・。
 この夜の練習は、サーブレシーブとサーブの基本理論と練習のやり方を提示した。サーブレシーブのポイントは、一定の重心位置で前後左右に素早く動いてボールの正面に入ることである。それでもボールが正面から外れても両腕で形成したフラットな面をセッターの方向に向けることである。つまり、正面には両膝の間でボールを引きつけて受け取る「真正面」と両膝から外れて取る「横正面」の2つがあるということを理解する必要がある。一定の重心位置を保って低い姿勢で移動するには腿の筋力も要る。
 サーブは、打つ手の形から説明した。ボールの回転を止める(ノー・スピン)にはと手の接触時に手首の角度を一定にして固定すること。手首を動かすと、ボールに回転が加わる。私が自分で、成功例、失敗例を見せながら説明すると、皆さん納得したようである。
 コーチは歳を取っても、口だけでなく、スピードダウンしても、できるだけお手本を示せた方が良い。
 帰りは、車で自宅まで送っていただいた。車だと10分位で着いてしまう。そして、また梨を頂いた。来月も行くことを約束して、代表のアッシー吉田さんと別れた。

10/11(火) 疲れていてもソフトバレーやりたい

 毎週火曜日は、我がソフトバレークラブで汗を流す。ここのところ1カ月間は皆勤賞もので、私は毎週参加している。11月の第一日曜日には、お隣の茨城県取手市にて招待試合がある。コート上のプレーヤーの合計年齢数が200歳以上であればOKという参加条件だ。我が高齢クラブにとってはハードルが低すぎる条件である。
 この日の練習は、セッターの特訓を行った。我がクラブの女性達はバックトス(back set)ができない。まったくやれないということはないが、基本ができていない。練習をやっては、あきらめ。また思い出したようにやっては、やはりできないと諦める繰り返し。若い時の癖はなかなか治らないものだ。ボールを取る位置が顔の前になってしまうのだ。セッターのボールを取る基本の位置はおでこの上である。右足、右膝、右腰、右肩、右目、右おでこを軸とする。バックトスができれば、攻撃のバリエーションが広がる。相手のブロックが2枚であれば、セッターはネット際でレフトとライトの中間でセット姿勢を取り、両サイドに平行トスを送る。相手のブロッカーは両サイドに移動する。そこで、セッターは左(右)手でツー攻撃を行う。ノーブロックである。とまあ・・・セッターがバクトスをできると色々な攻撃を展開できる。
 来週は、3人一組でバックトスの連続を行う。顔の前でボールをコントロールする癖が取れないようであるならば、ヘデイングでバックトスをやってもらうことで矯正になるであろう。今度は、あきらめない。できるまで、バックトスの練習を毎週1回の練習であるが継続することに決めた。
 経営の神様である松下幸之助も言っている。「上手にできる秘訣は、できるまでやることです」。他の練習は封印しても、しばらくできるところまでやり続けよう。但し、一日15分のみが我がクラブの基本練習の原則。練習の2/3は、ゲーム練習がやはり楽しい。これが生涯スポーツの基本練習のあり方であると私は考えている。

2011年10月12日水曜日

10/10(月祝) 山口国体少年女子観戦ー3

 少年女子の3-4位決定戦と決勝は、防府(ほうふ)市に新たにできたばかりのソルトアリーナ防府で行われた。ソルトとは塩のことである。江戸時代は海水から塩を取って藩の財源としてきた由来がある。
 昨夜は、山崎さんにお世話になり、フグのフルコースをご馳走になった。お酒もフグのヒレ酒を3合ほど頂いた。山崎さんに車で会場まで送って頂いた。山崎さんは、私を降ろした後、男子会場の宇部市に向かった。
 3-4位決定戦は、昨日、山口県(誠英の単独チーム)に敗退した大分県(東九州龍谷)とここ10年間で勝率が一番高い同じ九州の長崎県(九州文化学園の単独チーム)の闘い。結果は、長崎県の勝利。大分県の攻撃のリズムは常に速い一定のリズム。実はそこに落とし穴があった。長崎県は一定のリズムの大分に対して自軍のブロッカーをアダプトしていった。昨日の大分と山口のゲームでも山口は研究した成果を発揮したようだ。そして、山口は大分と違うリズムで攻めていった。ゆっくりとしたリズムと早いリズムを織り交ぜて大分のブロックをかく乱したようだ。
 決勝戦は山口県と宮城県(古川商業の単独チーム)との闘い。お互いに相手の速攻を封じようとネット近くに山なりにサーブを放つ。つまり、速攻プレーヤーにサーブレシーブをさせて助走を短くさせ、かつリズムを崩そうということだ。男子の宇部商業にも言えたことだが、誠英も相手チームを研究し尽くしている。ブロックが要所で効いた。攻撃は中国からの183cmのミドルプレーヤーの留学生がセンターからライト方向に片足で流れながらの攻撃が面白いように決まった。満員の山口県応援団の声援も後押しした。3-0の完勝であった。監督の田淵先生とは5年前に日本体育協会公認上級コーチ養成講習会に一緒に受講し、色々語り合った仲でもある。「日本一おめでとう!」

 

2011年10月10日月曜日

10/9(日) 山口国体バレーボール少年男子観戦-2







 山口宇部空港の近くにある宇部市俵田翁記念体育館に入ると懐かしい顔に出会った。山口県で30数年前に春高バレーで優勝した香川高校の監督であった藤田先生である。細い目をさらに細くして、「オーお前か、元気にしちょったかね?」。あの当時、オレンジ色のゲームシャツを着用しているチームは少なかった。山口県のカラーは県名産品の夏みかん色のオレンジである。香川高校は当時高校女子バレーでトップの大分県の大木先生(現在の東九州龍谷の初代監督で部長)と一緒に世界一を目指していた日立女子チームに度々合宿で一緒になっていた。
 その藤田先生が県立宇部商業が山口国体優勝を目指す強化校に指定されて以来、チームの面倒を裏方で支えてきた。チームにいる190cm台の3人のうちの一人、中国からの留学生を特に面倒を見てきた。

 ゲームは、ベスト4をかけて兵庫県選抜と対戦した。スタートは硬かった宇部商業であったが、相手の攻撃を事前に研究しているようで、ブロックシステムが良く対応して効果を発揮した。結果は2-1で宇部商業の勝利。午後に、決勝進出をかけて隣県の福岡県選抜との対戦となった。福岡の選手は小柄なので、移動攻撃で宇部商業のブロックを寸断させながら滞空力のあるジャンプから鋭いスパイクをコートに突き刺す。あっという間にセットカウント0-2となった。幸いにも、国体は準決勝から5セットマッチである。開き直った宇部商業はエースの藤中を中心にバックアタックをからませ、3,4セットを連取して、最終セットを迎えた。

 コート後方の壁際の役員椅子に座っていた藤田先生が囁いた。「ここ8年間ほど、地元開催地が優勝していないんじゃ・・・」。果たして・・・、先生の杞憂は、この準決勝で当たらなかった。出だしで4点連続を取り、その勢いで5セット目を取った。館内満員の応援席は盛り上がりに盛り上がった。

 この日、宇部市から車で1時間のところにある周南市にお住まいの山崎さんの自宅に招待され宿を提供して頂いた。山崎さんは、日本ソフトバレー連盟の競技委員長で、地元山口県ソフトバレー連盟の会長でもある。

(画像は、夕食で周南市にある寿司店でご馳走になったフグのフルコース料理。山口県にはフグの産地で有名な下関市がある。フグ刺しに始まり、フグの天ぷら、フグちり、フグ雑炊と続いた。フグは、地元の人はふく(福)と言い、幸福のシンボルでもある。フグ食べて福来る)

10/8(土) 山口国体バレーボール観戦-1



 金曜日から入る予定であった山口国体だったが、スケジュールの変更をして本日、土曜日から月曜日まで滞在することにした。ところが、出発日を変更したら、飛行機が午後の便だけしか取れなくなった。というわけで、きょうは移動の日となった。
 山口宇部空港に着いたのは、午後3時。少年男子の会場は空港から近いのだが、ゲームはほぼ終わる時刻。関係する東京代表の東洋高校や千葉県代表の習志野高校の結果を気にしながら、とりあえず新山口駅にリムジンバスで向かった。
 ホテルにチェックインして、結果を検索してみたら、東洋はインターハイと同じ対戦相手の兵庫に敗北していた。兵庫の速攻コンビにブロック陣がついていけなかったようだ。山口入りするまでは習志野高校との練習試合でもセットを落としていない。また、関東大学リーグの上位の大学チームとの練習試合でもセットを取るときがあった。コンディショニングと本番での度胸が不足していたようだ。
 習志野はなんと優勝候補の長野選抜に辛勝していた。長野選抜は1名を除き、全員が今夏の秋田インターハイで初優勝した名将壬生(みぶ)監督率いる創造学園大高校のメンバー。試合を応援していた千葉県バレー協会強化委員の一人に聞いてみた。長野選抜は他校から1名をスタメンに入れて対戦したのであったが、コンビが今ひとつ取れなかったようだ。対する、千葉県は今年度から選抜を止めて、単独チームで国体に望むことを私も属する強化委員会で決めていた。女子も市立船橋単独で臨んで、同じくベスト8に残った。選抜はメンバーは充実するが、一緒に集まっての合宿の時間は少なく、細かなチームワークが取れないところが指導者にとって難点である。単独のチームでも全国でベスト8以上安定した成績を残している県は、今後単独での編成になっていくのであろうか。逆に、全国大会ベスト8に入ることが稀な県は選抜を組み、長期間鍛えていくことが国体で勝つ要因の一つになっていくのであろうか。
 夜は、ホテルで偶然再会したバレー関係者4人と一緒に新山口駅界隈に繰り出した。駅の周りのホテルは国体出場者や関係者で満室である。飲み屋街の店も満席。そこで、仲間の一人が穴場の店を紹介してくれた。何でも既に3回、店に入ったことがあるという。そこは、地元の人が行くような普通の中華そば屋さんであった。そして、そこでオーダーしたのが「ばりそば」。出てきたのは大皿にてんこ盛りの普通の固焼きそば。これが驚くほど旨かった。替え玉まで注文してしまったほどだ。
(画像は、ばりそば。4人前を大皿で持ってこられた時は驚いた。そして、ペロリと食べてしまった)

2011年10月8日土曜日

10/7(金) ママさんバレーチームの助っ人監督



 年に3回、「じじばば交流ママさんバレー大会」というのが、東京都渋谷区にある日本青少年オリンピック総合センター体育館で開催されている。主催は栄光のバレーボール時代を築かれた70歳以上の元バレープレーヤーの方々で、手作りの交流大会だ。今回の参加チームは16チーム。3コートでレベル分けをして、各チーム2セットマッチの3ゲームをこなす。私は、6月にもこの交流大会に初めて顔を出して、夕方の懇親会までお邪魔した。
 今回も、千代田区で活動しているセレブママたちのちーむである千代田クラブさんと一緒に参加させていただいた。前回は途中から監督業を依頼されたが、今回は覚悟を決めてスタートから監督業に着かせて貰った。私の目的は、このチームの今後の練習課題を明確にしめすことと決めた。
 ゲームの勝敗は1勝2敗であったが、課題が明確に認識された。このチームの最大の課題は、サーブレシーブ(reception)である。個人技としてのレシーブスキルが身についていない。
 サーブレシーブの基本スキルとして、まず、相手サーバーの観察である。どんなフォームで打つのか、サーブの種類は、どこを狙っているのか、初対面のチームであっても、そのサーブを1本見れば、どこに、どのようなサーブを打とうとしているのか理解できる。次に、誰が取るのかの判断である。これはフォーメーションとの関係もあるが、一般にバックセンターにはレシーブの上手なプレーヤーが入るので、この人が多くのサーブをレシーブするのが良い。千代田クラブさんの場合は、バックプレーヤーが全員、サーブレシーブに自信がないという表情をしている。失敗している原因は、正面に移動していない、両腕の面がセッターに向いていない、肘を曲げたり、腕を振り回してボールをコントロールしている、プレーヤー間のボールを誰が取るのか責任範囲があいまい、などがあげられる。
 ネット型のスポーツは、サーブもしくはサーブレシーブから始まる。名セッターや名アタッカーがいてもサーブレシーブがセッターに返らなければ、攻撃は単調になり、半減以下になってしまう。最初のプレーが最重要なのだ。この2つの技術の優劣が勝敗の70%以上に影響する。試合後、コーチとキャプテンに、今後の練習についてノート3ページを手渡した。今後3ヶ月間で個人のサーブレシーブ練習を一人300本することを提案した。とにかく正しいフォームを理解して、それを個人的な基本的で単純な練習からフォーメーションを絡めた中での練習へと反復練習することである。そして単調な練習を長続きさせる工夫として、データを毎回取ってグラフ化することが必要である。やはり、人は評価されないと面白くない。セッターの1m周りに返球するAパスの目標をを3ヵ月後に60%の設定して、自己評価していただこう。スタートは恐らく30数%と思うが、自分の実態を数値で把握すること、客観視することはステップアップするためには必要なことだ。
 夕方から恒例の懇親会が始まった。私の会費は千代田クラブさんが支払ってくれた。「恩に報いるには2倍返し」を身上としている私としては、来月の練習に顔を出して恩に報いねばならない。

(画像は、景品の1つで中央区にある老舗のせんべい屋さんが「じじばば」のロゴを入れて作ってくれた)

2011年10月6日木曜日

10/6(木) 米アップル社S.ジョブズ氏の逝去




 各紙の夕刊の一面に氏の逝去が報じられた。04年にすい臓がんの手術を受け09年にも休養して肝臓移植を受けていた。56歳であった。「Mac」ブランドでパソコンを世に送り出し、最近では、「iPod」や「iPad」または「iPhone」をヒットさせた。今年8月には米アップル社を時価総額で、エクソンモービル社を抜いて、世界最大の企業に押し上げた。
 私の家族の中では、娘達が発売されたばかりの「iPod」や「iPhone」に飛びついていた。私をそれを横目で見ながら、今使っているもので十分と虚勢を張っていた。新しいもの大好き人間である私にとっても、それらの機器は魅力たっぷりに私の好奇心を揺さぶっていた。財布との相談もあったので、購入は我慢していた。定年を数ヵ月後に控えた今、投資している株を少し取り崩して、今からしっかりIT武装をしようと考えている。年をとるほど自身の頭脳を働かせ知恵を磨き、情報のやりとりは電子頭脳であるIT機器を活用すべき、と私は考えている。
 ジョブズ氏のプレゼンテーション手法に興味を持っていた。商品の仕様や機能を説明する前に感動や体験を語り、消費者の共感を得たところで、本題に入る手法は斬新であった。また、社長自らが壇上で新製品を紹介するようになったのはジョブズ氏の影響が少なくないようだ。
 11月に自伝が邦訳と同時に刊行される。氏はまるで余命を知っていたかのように自伝の制作に取り組んでいたのであろう。是非とも、英文と邦訳両方を購入して英語学習の糧にもしたい。
 きょうは、午前中に3カ月ぶりに千代田区のママさんチーム「千代田クラブ」に伺った。明日は、チームに同行して、青少年オリンピック記念センターにて開催のママさん招待試合に監督代行でお手伝いする。
(画像は最近のジョブズ氏。抗がん剤の影響か前身が細身でやつれが見えている。97年に「世界を変えよう」とライバルのマイクロソフトのビルゲイツ氏と資本業務提携に踏み切った判断力。真の革新性を見せて頂いた。合掌) 

10/5(水) World Cup2011 組み合わせ決定

 組み合わせが決まった。出場12チームの総当たり戦で行われる。
 日本女子、初戦のカードは、欧州選手権4位、FIVB推薦で出場が決まったイタリア。推薦でトルコ(欧州3位)やロシア(欧州5位)がくるかなと思っていたら、これら両チームは漏れてしまった。ロシアのガモワ選手が見れないのは残念。日本の第2戦以降はアルゼンチン、中国、アルジェリア(推薦)、ドミニカと続く。初戦のイタリアであるが、イタリアは以前のような力はなく、新旧交代の端境期にあるチームで日本が負ける相手ではない。注意しなければいけないのが、中国。先月のアジア選手権決勝では苦杯を嘗めた。ここをしのげれば、6勝全勝で後半に進める。ポイントは、イタリアと中国。
 男子の初戦は、先月のアジア選手権で優勝したイラン。実力はイラン。但し、20年振りのワールドカップ出場で、日本のあのお祭り騒ぎの応援に驚いている間に実力を封じ込めれば、勝機は十分にある。その後の、第2戦以降でまともにぶつかって勝てる相手は、残念ながら見当たらない。男子の目標は4勝あたりか・・・。推薦枠でロシア(欧州3位)とポーランドが入った。
 女子のベストスリー(ロンドンオリンピック出場権獲得)は、ブラジル、USA、日本、セルビア、ドイツ、中国が有力候補。男子は、ブラジル、セルビア、USA、ロシア、イタリアが有力。
 ワールドカップのゲームをなるべく観戦に行き、情報収集したい。世界のバレーの動向を探っていきたい。おっと、その前に、今週末に開催される国民体育大会観戦のために山口県に行ってくる。宇部市で少年男子(高校男子)、防府市で少年女子(高校女子)のゲームを最後まで見てくる。

2011年10月4日火曜日

10/4(火) ワールドカップ男女出場国まず10チームが決定



 11月4日から日本で開催される2011World Cup出場12チームの内、10チームが10/2のヨーロッパ選手権を最後にして決まった。World Cup成績上位3チームは、ロンドンオリンピックの出場権を獲得できる。どの国も、眼の色を変えて闘いを挑んでくる。これで4位以下になれば、各大陸選手権でまた熾烈な代表権を争わねばならない。そこでも負ければ、FIVBランキングによって推薦されたチームのみで戦う世界最終予選会があるが、それも胃が痛くなるような戦いだ。11月のWorld Cupで速やかに代表権を得て、1年後のオリンピックのためにじっくりと新戦術を磨きたいと考えるのは、どこの国の監督も同じであろう。

 女子から行こう。まず開催国であるホストのJapan。南米からはBrazil。北中米からは優勝のUSAと準優勝のDominica(ドミニカ)。アジアからは、先月のアジア選手権決勝で日本と競って優勝したChinaと第3位のKorea(韓国)。欧州からは2日前にフルセットの決勝を制したばかりのSerbia(セルビア)と準優勝のGermany(ドイツ)。アフリカからは優勝したKenya(ケニヤ)と準優勝のAlgeria(アルジェリア)。

 激戦区である欧州選手権の成績は、3位がTurkey(トルコ)。トルコのエースのナスリハンはベストスコアラー賞を獲得した。4位がItaly。新旧交代が上手くいっていないようだ。5位がPoland(ポーランド)。そして昨年のワールドグランプリ優勝のRussia(ロシア)は6位だ。7位がNetherlands(オランダ)、8位がCzech(チェコ)と16位のIsrael(イスラエル)まで続く。

 残り2カ国は、FIVBのランキングなどで推薦される。ロシア、トルコ、タイ、キューバなどが有力な候補であろう。

 男子は、ホスト国のJapan、南米からは優勝したBrazilとArgentina(アルゼンチン)。欧州からは初めてのアベック優勝を成し遂げたSerbiaと準優勝のItaly。中南米からは、CubaとUSA。アジアからは先月のアジア選手権で優勝したIran(イラン)と準優勝の中国。このイランや今回6位だったがインドの2カ国は最近メキメキと力を付けてきて、アジアでは韓国、中国、オーストラリアと並んでトップグループを形成してきた。彼らのホームでのゲームでは日本は負け越してきている。そしてアフリカからはEgypt。私が30年前に指導していたチュニジアは2位カメルーンの後塵を拝して3位であった。

 残り2カ国はロシア、韓国などが有力だ。

会社を定年になる来年から私も海外に出る。少しは海外のバレー事情を学習していかなくてはいけない。

(画像はセルビアの首都であるベオグラードで開催された女子バレー欧州選手権大会優勝のセルビア。観客は9,000人。紙吹雪が華やかさを盛り上げている)

2011年10月3日月曜日

10/3(月) アジア男子バレー選手権の結果

 イランのテヘランで開催されていたアジア男子バレーボール選手権大会が閉幕した。日本は連覇ならず、第5位であった。優勝は開催国のイラン。2位以下は中国、韓国、オーストラリア。日本は5位・6位決定戦で、予選グループで敗退したインドと再対戦した。フルセットのジュースで辛勝しした。
 ここ5年前ぐらいから、アジアでもインド、イランの台頭が注目されていた。ジュニアのレベルでは、3年前からこれらの国に勝ったことはない。いよいよ、シニアのレベルでも勝てなくなってきた。原因は何だろうか?日本が弱くなったわけではなく、他の国が強くなってきただけだ。今のままでは、ロンドンオリンピック出場も危うい。
 日本の小学生や中学生のスポーツ現場を見ると、子供達は野球、サッカー、バスケットに夢中だ。バスケットはまだ、プロのBJリーグと日本リーグが混在しているが、野球とサッカーは完全にプロ化している。内情はとにかく、表向きにはTV放映も多く、プロに憧れる子供達は多い。バレーボール男子の将来はどうなるのか。ロンドンへの道が断たれた場合、バレーボールは女子だけのスポーツになってしまうのか。いや、サッカーのなでしこブームがこのまま続けば、バレーボール女子の将来も危うい。小学生女子バレーの登録人口が最近は減少傾向にあるという。
 日本のバレーボールが危ない。しかし、危機感を抱いている関係者が私の周りには少ない。危機感を通り越してあきらめ感を抱いている関係者さえいる。このままではいけない。このままでは・・・。

10/2(日) 雫石町にてV1リーガーと一緒に教室






 雫石と聞くと、スキー場を思い出す。雫石で、ウインターシーズン外に盛んなスポーツは、野球である。きょうは、東北各地にスポーツ店を構えるタケダスポーツが主催する野球、ソフトテニス、バレーボールのジュニア対象の教室の運営協力で昨夜から岩手県内に入った。
 温朝方の気温は午前中の少年野球の講師は元プロ野球選手3名で、名前は思い出せないがTVで見覚えのある顔であった。ソフトテニスの講師は、韓国ではスーパーエースと言われていた金さんという40歳手前の小柄な女性であった。金さんは、日本生活が長いのか、流暢な日本語で中学生達を指導していく。時には、間近で他のスポーツの講師の指導法を見るのも学習になる。金さんは、「挨拶」「大きな声を出す」ということを講師挨拶から子供たちと約束していた。ソフトテニスもバレーボールと同じネット型スポーツである。金さんは、相手コート上に置いてある的に当たれば褒めるご褒美を与えるが、ボールがネットを越えない場合は、罰として1回のミスに対して10回の腕立てを課す。褒美と罰で集中力を出させている。但し、同じミスでも、コート外のアウトに対しては罰はない。
 バレーボールのサービスで、ネットに当てて相手コートにボールが入らないミスに対して、私も罰を課すが、腕立て1回で済ませている。サービスは自分でトスをして自分で打つのだから、ネットを越えない場合の罰は腕立て10回が妥当であろう。自分の甘さを反省させられた。
 午後から、体育館にて中学女子100名対象にバレーボール教室を始めた。講師は、この8月に結成された『仙台ベルフィーユ』チーム。前身は、昨年まで四国で活動していた『四国エイティ8」というチーム。監督はアトランタオリンピック5位監督の米田一典氏、メンバーは、今のところ10名。先月末に10人目の中野さん(古川学園卒)が大阪三洋電機から移籍してきたばかり。
 この日、米田監督が見えられなかったのは残念であった。10数年ぶりの再会を楽しみにしていたのだが、来月から始まるリーグ戦でお会いできるであろう。代わりにコーチの息子さんが教室の指揮をとった。子供達は初めてVチャレンジの選手たちの手取り足とりの指導を受けて緊張ぎみであった。
 最高気温15度という環境であったが、会場は熱気に包まれて楽しい一日であった。子供たちが生き生きと楽しんでいる姿に元気付けられる。帰りの新幹線は最終の1本前に間に合った。自宅に着いたのは9時半を少し回っていた。

(画像は、開講式。各チームに仙台ベルフィーユの選手を2名ずつ付けてコーチ役にして教室は進んで行った。私の講習会時にも、6人くらいの現役選手がコーチ役(介護役?)で付いてくれると効率がぐんと上がるのであるが・・・)

2011年10月1日土曜日

10/1(土) 盛岡市に移動

 先ほど、盛岡駅に降り立った。全国チェーンでお馴染の駅前のホテルにチェックインした。食事は、近くのコンビニで買ったパスタと缶ビール。
 明日は、ここから車で40分のところにある雫石(しずくいし)市に移動する。午後から中学女子100名を対象にしたバレーボールクリニックを開催する。
 東京駅からほぼ3時間で盛岡駅に着いたが、東京と比べて気温が低い。半袖姿で、盛岡駅のホームに降り立った若い女の子たちは「キャア~寒~イ」なんて猫のような声を出して体をくねくねしていた。東京と比べて4度位低いのだろうか、本当に寒い。明日は風邪を引かないようにしよう。
 さあ、今晩は、NHKの新土曜ドラマ『神様の女房』を見て、10時には早めに寝ましょう。『神様の女房』はパナソニックを一代で世界的な電機メーカーに成長させた創業者である松下幸之助氏の夫唱婦随の7回シリーズの物語だ。